2018年1月17日水曜日

山口百恵(歌手) - "Momoe Yamaguchi" as a Singer.




山口百恵

70年代と寝た女


山口百恵(やまぐち・ももえ)は、1970年代にアイドル歌手として活躍した女性である。

1959年1月17日、東京都渋谷区に生まれる。中学生の時にオーディション番組「スター誕生」でデビューし、人気アイドル歌手として、歌に芝居にバラエティに様々な仕事をこなす。ドラマや映画で共演を重ねた三浦友和と恋に落ち、1980年に結婚。それを機に同年に芸能界を引退している。

現在は「三浦百惠」として、夫と子供に恵まれた専業主婦を続けている。芸能界には復帰していないままだが、日常生活を隠し撮りされたものが週刊誌に掲載されたり、曲の構成を変えたベスト盤のCDやDVDなどが繰り返し発売されている。一般人でありながら、今もなお注目を浴び続けている。

昭和の日本、ひいては1970年代を代表する大スターである。山口百恵について、「絶頂期に引退した」と「日本武道館で開催されたラストコンサートでは、最後にステージにマイクを置いた」は、昭和の芸能史を語るエピソードの定番として、語り継がれて久しい。

1990年代に放送されていたフジテレビの音楽番組「MJ」(ミュージックジャーナルの略)で、特定の歌手に焦点を当てた企画を毎週やっていた。そのひとりが山口百恵だった。副題で「70年代と寝た女」とされていたのを、今も覚えている。

高校生当時、校内図書館の一角に文庫本の棚があり、偶然手に取ったのが、山口百恵の「蒼い時」(あおいとき)という随筆だった。読んでどんな感想を持ったかは、あいにく殆ど覚えていない。ただ、手に取ったということは、MJで見たことも手伝って、一世を風靡したアイドルという最低限の知識はあったのだろう。

芸能界には、「不景気の時ほど超弩級のスターやアイドルが登場する」「激動の時代に活躍したスターはカリスマ性の塊」という、古今東西変わらない定説がある。

景気が悪ければ、人はどうしても経済面で余裕がなくなり、穏やかでなくなる。そんな心を華やかな芸術性で満たしてくれた記憶は、より鮮烈に生きるのかもしれない。人は過去を振り返る時、苦い当時を席巻した歌や映画などの中に、甘美でありながら力強い光を見出すだろう。

山口百恵の場合は、1970年代という、経済や社会そのものが不安定で、決して好景気ではなかった時代に、レコードの売上枚数こそ現代の歌手とは桁外れに劣るが、「菩薩」と呼ばれるほどの絶大な人気を集めた。呼び名からして、通常のアイドルより更に神格化され支持を得た可能性がある。


伝説から神話へ、そして女房となった女。


デビュー当時、彼女は「青い性」路線といわれる曲を多く歌っていた。

14歳の時は「青い果実」であなたが望むなら 私 何をされてもいいわと歌い、15歳の「ひと夏の経験」ではあなたに女の子の一番大切なものをあげるわと歌った。それぞれの曲が発表された1970年代より、性に関して開放的であるかもしれない現代においても、なお、衝撃的な歌詞の連続。曲の連続。

当時、山口百恵という少女歌手が年齢らしからぬ曲を歌うことで、人々からどのような好奇の目で見られたかは、「あの子は、(歌詞の)意味が判っているのかね」「子供に下品な歌を歌わせて、と揶揄された」と彼女の自伝にも記述がある。デビュー間もない頃からそういった曲を披露した彼女は、世間一般から「悟りきった」「早熟な」「年齢の割に大人びた」という枕詞つきで語られるようになる。しかしやがて絶大な人気を得て、宇崎竜童・阿木耀子夫妻と知り合う仲になり、「プレイバックpart2」など、両夫妻が作詞作曲を手掛ける数々の名曲を披露していくことになる。

前述の番組MJでは、「山口百恵は曲のイメージに合わせて微妙に髪型を変えていたので、ファンはそれに追いつけなかった。1980年代前半に流行した聖子ちゃんカットのような現象が起きなかったのは、そのためだ」といっていた。髪型を変え始めたのはこの頃からだろうか。

彼女の代表曲で「横須賀ストーリー」があるが、発表当時は17歳。現代に至るまで様々な歌手にカバーされた名曲であり、彼女のイメージにもぴったりだが、17歳のアイドルが歌う内容では到底ない。ジャケット写真もまた、白馬に乗った王子様を夢見る少女の視線ではなく、人生の機敏や男と女の情愛の何たるかを自分なりの解釈で悟り始めた女の目をしている。

幼い頃から苦労してきた彼女には、この世の暗部を知る人間特有の諦めの表情がある。彼女は21才の若さで「時代と寝た女」「一億人の娼婦」とまでいわれた。一応は誉め言葉だろうが、思春期の女性に向かって言う言葉だろうかという気もする。

彼女の生い立ち、物事に対する考え方については、「蒼い時」(集英社刊)がよい参考になる。自らが私生児であるという告白、母と妹と3人で暮らした日々のこと、生活保護を受けた過去、横須賀や仕事や恋愛や性について思うことなどが、見事なまでに卓越した文章で綴られている。

何度目かで読み返した時、私が特に驚いたのは、数字という題で書かれた随想の一節だった。「今、私の年齢が二十一才」。本の初めには、著者である彼女を撮影した白黒写真があるが、それを見て年齢を思うと、本当に驚きを禁じえなかった。21歳にはとても見えない。文体も写真も、何かの間違いなのではないかと思うくらい、彼女は実年齢よりも遥かに大人びている。

いつの時代もどの国でも、ほとんど誰もが一生に一度は、華やかな世界に憧れる。その中で実際にデビューし、さらに成功を収める人は、全体の一握りどころではなく、ほんの一つまみ程度だろう。彼女はその中でも、「伝説」「神話」「菩薩」と呼ばれるほどの絶対的な地位を得た。そしてそれを自らの手で封印した。

私の知り合いで、彼女と同世代の人が言っていた。「百恵さんは複雑な家庭環境で生まれ育って、父親もあんなだったから、幸せな家庭への願望は人一倍強かったはず。十代の時に寝る時間もないほど働いて、愛する人と結婚して家庭を築く夢も叶えたので、今更芸能界への未練などあるはずもない。……百恵さんは、最低限の生活を知っている人。おそらく一ヶ月10万円で暮らせといわれてもなんとかやりくりするだろうし、1,000万円で暮らせと言われても傲(おご)ることなく生活できるだろう。そういう人は、やはり(芯が)強い」。昭和のスター・山口百恵を語る人は芸能界にも一般にも多いが、これは最高の褒め言葉のひとつではないだろうか。

何年前になるだろうか。昔アイドル歌手として一世を風靡し、「私の彼は左利き」という曲で人気を博した麻丘めぐみが復帰した時、話題を呼んだ。

そのことに関連して、新聞にテレビ番組制作者の言葉が載っていた。最終目標は、三浦百恵さんに出演してもらうことだと。VTRで数十秒だけ軽く流す程度にせよ、生放送の番組でスタジオに来てもらうにせよ、もしも本当に出演交渉が成功したらどえらいことだろう。視聴率はいうに及ばずで、号外が出る可能性もある。なにせ、キルトか何かの作品を百貨店の展覧会に出展したというだけで、ニュースとして騒がれるほどだ。

しかし、それはありえないことだとも思う。

自叙伝の終りで記したように、彼女は倖せになり、今もまた、倖せなのだから。


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